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楢柴の茶器と本能寺の信長

なんと、信長が本能寺で茶会を開いたのは

島井宗室を茶会に呼びだし
  <前のブログのお話、、の少し前>
この楢柴の茶器を奪う計画だったという説も

   さらに、、、

それを餌に本能寺の変は秀吉が天下を盗む計画

だったとかの説も、、ありますが。<本能寺の変、秀吉説>

どうだろうか?
  秋月種実と茶入れ

「楢柴」と言う名の「天下の三名物」茶器のお話し

長谷川法世さんの「グランザ」の記事です

秀吉の島津征伐の時、秋月種実は島津方に加わり破れました

秀吉の怒りを恐れた種実は「楢柴」持ち主の茶人「島井宗室」から

この楢柴の茶壺を盗みに秀吉に献上し、、何とか殺されず

日向財部に減封されましたと、、ムムム

ますます、この記事で腹切石の恵利暢威の一族郎党の

自死事件は自殺ではなくて、、やはり、この腹黒き種実が

葬儀の時恵利一族を急襲し全滅させたのでは

なかろうかと言う、、、ことが正しいのかもしれませんね。

このお話初めて知りました。法世さんすごく歴史に詳しいですね。

自分の読んだ九州戦国史にもこのお話はありませんでした。
光秀は本能寺にいなかった

一昨日の西日本記事です

なんと、本能寺の変の時

光秀は本能寺にいなかったとか。

衝撃の事実

あの「敵は本能寺にあり」の言葉は

なかったかもしれませんね。

NHKどう作ったか楽しみです。

ただ、光秀の末裔が本能寺の変は秀吉の別働隊が

光秀の桔梗の紋の旗を掲げて信長を殺したという説も、あります。

この説に、、納得できるところも。それがこれで、、

さらに、、かな?、、だいたい、普通は本人が一番先頭で

動くはずですから、、どうだろうか?
岩屋城陥落 高橋紹運から立花宗茂へ

戦国時代末期、、九州全土は島津氏と

その同盟勢力5万に侵攻され高橋紹運の守る岩屋城は

奮戦むなしく島津軍に攻め滅ぼされます

残る城は北部九州では、紹運が立花家へ養子に出した

立花宗茂の守る立花城のみ、、ただ、島津軍は

岩屋城の戦いで相当の被害をだしたので

まず降伏を勧告します、、立花軍考慮します

<本当は時間稼ぎ>と、返事、、

少し待てば毛利軍を先ぽうとした豊臣軍10万が北九州に上陸予定

また、大分にも第2軍10万が上陸予定でしたので。

ひたすら引き延ばし作戦に激怒した島津軍は立花城へ攻撃を開始しますが

立花城落ちません。そうこうするうちに豊臣軍10万到着

で、父親や仲間を殺された復讐に燃える立花軍は豊臣の先ぽうとなり

島津軍を駆逐します、、この武勲で名を上げた立花宗茂は

東の本田平八郎、西の立花宗茂と、、猛将として名をとどろかせます。
岩屋城 高橋紹運のお墓

太宰府から大野城市の端にある岩屋城へ、、

約3キロの上り、、最初の上りから、、アベレージ7キロくらい

体重が65キロのときは確か時速10キロはでていたが、、ムムム

なんとか脚をつかず岩谷城の入り口に

で、この看板の先<下>に二の丸に高橋紹運のお墓があります。

前回のブログ、秋月の重臣の恵利暢堯<エリノブタカ>切腹の

すぐ後の時代です。九州全土制圧に燃える島津氏は九州北部最後の

拠点の、ひとつ、この岩屋城を5万の軍勢で攻め寄せます。

守るは勇将、大友家の家臣の高橋紹運、、激戦で城兵

800人近く全滅、、しかし、島津軍にも相当な被害が

で、この後、島津軍、紹運の息子<立花家へ養子に出した>福岡の立花宗茂の

守る立花城へ、、

この看板から下へ100メートル下るとお墓があります

ここは二の丸があったそうですが、、紹運ここで亡くなった言うことは

最前線で戦っていた言うことかな